アサーションについて
学生の頃、アサーションという概念に出会って、衝撃を受けたことを覚えています。
アマゾンプライムのプライムリーディングという読み放題サービスに平木先生の本が入っていたので読み返してみました。
本書は、アサーションを日本に広めた第一人者である平木典子先生が書かれたアサーションの入門書です。
アサーション概念の説明から、自己表現が妨げられる理由、自己表現タイプのチェック、自己表現の具体的な方法まで書かれています。第8章は感情コントロールについても触れられており、流行りの(?)アンガーコントロールの内容も含んでいます。
アサーションを知らずして認知行動療法や心理教育は語れないくらい、カウンセリングをするうえで非常に有効で重要な概念になりました。もう習わない学生さんはいないのでしょうねきっと。
私はアサーションの概念だけを先に学んだので、認知行動療法を後から学んだ時に普通に内容の中に入っていてびっくりしたものです。
上記の本は改訂版ですが、私は改訂版じゃない昔の本で学んだ記憶があります。
アサーションの概念がすごいと思うのはわかりやすく臨床に有効なこと、自己表現は権利であることを強調していること、簡単なスキルで練習できることだと思います。
カウンセリングに来るクライエントさんはほとんどといっていいほど自己表現が苦手な方が多いですし、そんな方々に紹介しやすいし、紹介した時のデメリットも少ないと思います。
なにより「権利」ですから、みんなが持っていて当然のものだし、相手がどういう出方をしても、その権利を使うかどうかは自分で決める、何なら自己主張しない権利がある、というのも、主体的でとっても素晴らしいなと思うのです。
私はアサーションを知って間違いなく生きやすくなったと思います。
自己表現のスキルとしてDESC法がありますが、これを知って、行きたくない飲み会も、面倒くさい勧誘も断りやすくなりました! ちょっと面倒な頼み事をするのも、上司にお休みをもらうのもDESC法で何とかなる!
ちなみに心理教育で使うときにはこちらの本を使っています。
女性のグループワークのための本です。
イラストがかわいらしく、女性ならではの具体的なシチュエーションがたくさん載っていて使いやすいです。
しかし、アサーションがスキルトレーニングである以上仕方がないとは思いますが、アサーションのスキルを使ったら、相手もわかってくれるでしょう!といったような、これで万事OKみたいな(青汁飲んだら健康!的な)万能感?がちょっと気にかかることがあります。
アサーション権を平気で踏みにじってくるやつとか、話が通じないやつとかには、自己表現をしても悲しい思いをすることが多いですからね…。
むしろ相手がどういう相手でも、自分の権利は手放さないための考え方というほうが現実的かもしれません。忖度をしたりさせないためのスキル。
自己表現をすることに及び腰にならなくていい。
相手か自分のどちらかではなく、相手と自分を同時に大事にしながら自己表現する術があるというのが、アサーション概念の肝だと感じています。
涙のふるさと考察ー「俺」とは誰なのか
「涙のふるさと」とは
「涙のふるさと」はバンプオブチキンが2007年にリリースしたシングル曲です。
youtubeのリンクを貼ろうと思ったのですが公式のビデオは公開されていないのですね。とりあえずiTunesの情報を貼っておきます。
歌詞はこちらから
涙のふるさと BUMP OF CHICKEN 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索
とても素晴らしい、いい曲なのですが、私の中で長年歌詞が謎でした。
最近、「こうなのかな」という答えを思いついたので書いておこうと思います。
なお、以下の引用元はすべて「涙のふるさと 作詞:藤原基央」です。
ぜひ歌詞を見ながらお読みください。
登場人物(?)の整理
この曲は誰かの呼びかけから始まります。
探さなきゃね 君の涙のふるさと
頬を伝って落ちた雫がどこから来たのかを
出掛けるんだね それじゃここで見送るよ
ついていけたら嬉しいんだけど 一人で行かなきゃね
歌詞を読んでいくとわかるのですが、この曲には涙のふるさとを探しに行く「君」と、「君」に呼び掛けている二人の人物がいます。
一人は冒頭で「探さなきゃね」と呼びかける人
もう一人はサビの部分で「会いに来たよ」と呼びかける「僕」です。
「会いに来たよ 会いに来たよ 君に会いに来たんだよ
君の心の内側から 外側の世界まで
僕を知ってほしくて 来たんだよ」
この二人が別人なのは後者の呼びかけは歌詞の中でカギカッコがついてわざわざ区別されていることからわかります。
そして後者の「僕」は発言の内容から「君」の「涙」だとわかります。
「僕」は「君」に自分がどうしてやってきたのか、つまりは君自身を知ってほしくて会いに来る(涙が出る)のです。
これから出かけるという「君」は「泣いている本人」ということもわかります。
ではサビ以外の部分で語りかけてくるナビゲーターのような人物(最後に「俺」と自称するので「俺」と呼びます)は誰なのか。「俺」はどうして呼びかけてくるのか。
これが今回考えたいテーマなのです。
「俺」とは誰なのか
「俺」はずっと「君」の心の中で起こったことを言葉にしていることから「君」の中にいる存在です。
この「俺」はなかなか「君」に対して辛辣です。
逃げてきた分だけ距離があるのさ 愚痴るなよ 自業自得だろう
目的地はよく知ってる場所さ 解らないのかい 冗談だろう
「君」が 今まで涙のふるさとを探しに行かなかったこと、涙のふるさとがどこだかわからないことに苛立っているようです。
「君」が涙のふるさとにたどり着いて、「治らない傷を濡らし」目的を果たした場面の後、一番最後に「俺」はこんなふうに言っています。
笑わないでね 俺もずっと待ってるよ
忘れないでね 帰る場所があることを
野暮だとは思いますが、私なりに最後の歌詞を詳しく付け加えるなら
(散々君に偉そうに言っておきながらこんなこと言うなんて)笑わないでね
俺も(君が俺の「涙のふるさと」に来てくれるのを)ずっと待ってるよ
忘れないでね (俺にも「涙のふるさと」という)帰る場所があることを
このようになるような気がします。
つまり「俺」というのは、「僕」とは別の「涙」あるいは、涙にもまだなれない「傷」なのではないかと思うのです。
この「君」は「俺」のことなんか全然気が付いてくれなくて、まだ涙として会いにも行けなくて、ちょっといじけてるから、辛辣な物言いになるのかなと思うのです。
本当につらいとき、涙も出ないことがありますよね。
つらすぎて受け止めきれないこと、まだ泣けないこと、「俺」はそんな心の「傷」なのではないかと思います。
でもいつか涙として会いに行けることを、そしてふるさとに来て傷の存在に気が付いてくれることを待っているなんて、なんと切ないのでしょうか。
傷が癒えるとは言わないけど、でも目的を果たして救われるような気持がします。
「治らない傷」というモチーフはバンプオブチキンのほかの歌詞にも出てくるキーワードです。またの機会にこのモチーフについても考えてみたいと思います。
専門職の権力とはー「スクールセクハラ」を読んで
共同通信の記者である著者が、教師のわいせつ事件について、被害者・加害者の双方丁寧に聞き取り調査を行った新聞記事をまとめた本です。
著者は最初は被害者から話を聞くのですが、途中で「加害者から話を聞かなければだめだ」と思い、加害者に直接会って、どのようにして事件が起きたのかを丁寧に聞き出していきます。加害者も「再発防止になれば」と協力しますが、その中で身勝手な自己弁護を口にします。その過程は緊張感にあふれ、読んでいるこちらもドキドキします。
書かれている内容が非常にリアルで、生々しくて、恐ろしすぎて、ページをめくる手が止められませんでした。
本書は「スクールセクハラ」と題されていますが、セクハラという軽い言葉のイメージでは済まない、重大な性犯罪の記録です。学校内で性犯罪が起きるという、これまであまり認められてこなかった事実にきちんと名前を付けて、問題として扱っていくためにあえて口にしやすい「セクハラ」という言葉を使っているとのことです。
著者は多くの教師は一生懸命に子供を教えているとしたうえで、「スクールセクハラは教育の構造の問題」であり「教師が自分の持つ権力に無自覚」であることを指摘しています。
私にも、学校で性犯罪を犯す人間は「小児性愛者」だという偏見がありました。そういう特殊な性癖を持った人がそのような事件を起こすのだと。
しかし、本書を読んで衝撃が走りました。彼らは必ずしもそうではなく、自分に「教師の立場」という権力があることに無自覚で、子どもと対等の「男女関係」を結んでいると思い込んでいたり、「相手を自分の思い通りにすることが教育」だと信じて疑わなかったりするのです。
「自分に都合よく相手を理解し、自分の思い通りにしようとする」という、相手を人間として尊重しない態度には、「自己愛」の問題があると思いながら本書を読みました。
「自己愛」とは「ナルシスト」と言われるような自己評価が高すぎる場合を指すことが一般的ですが、その裏には過大なプライドで覆わなければならない、自信のなさがあるといわれています。
詳しくは自己愛について書かれた本を参照なさるとよいと思います。
教師という立場は、「教える」という上下関係が前提で、「自己愛」が肥大しやすい職業です。
これは教師に限ったことではなく、「相手の弱い部分の話」を日常的に聴くカウンセラーという職業も似たような権力を持っていますが、スーパービジョンという、先輩から教えを乞うシステムがカウンセラーの自己愛の肥大を食い止める働きをしているといえるかもしれません。
(その代わりに自己愛が傷ついて屈折しやすいような印象もありますが…)
学校関係の方は、「このようなことが学校に起きうる」ということを肝に銘じる意味でも読んでおいて損はないと思います。また、対人専門職の方は自らの「権力」について考えるきっかけになる一冊だと思います。